昭和式記憶術

昭和

恋する昭和

緑のおばさん、見たことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
皆さんこんばんは
沢山のアクセスといいね読者登録ありがとうございますm(_ _)m
今日は~緑のおばさんの日なのですね~
今日(11月19日)は、「緑のおばさんの日」
日本記念日協会によると、「緑のおばさんの日」は、1959(昭和34)年の今日、児童の登下校時に、緑の制服に黄色い旗を持って子どもたちを誘導してくれる”緑のおばさん”が、東京に登場したことに由来する。子どもの交通事故防止策のひとつであった。
”緑のおばさん”は、正式名称を学童擁護員といい、 小学校の通学路上に立ち、児童の登校の安全確保に当たる職員のことで、女性の学童擁護員が、”緑のおばさん”の愛称で親しまれていた。
太平洋戦争に敗戦した日本経済が飛躍的な成長を遂げる中、商用トラックの数は年々増加の一途をたどるが、昭和30年代に入ると「交通戦争」という言葉が流行語となるほど車による事故が多発した。華々しい経済発展とモータリゼーションの普及が見られるが、歩道や信号機の整備が十分でない中で、ドライバーは仕事に追われ、歩行者は車に対して無防備な時代、死者は歩行者が最も多く、それも多くが子供であり、特に多数の幼児が犠牲者となっていた。
そのような情況の中で、1959(昭和34)年5月に”東京オリンピックの1963(昭和39)年開催”が決まると、東京都内では大規模な建設ラッシュが始まり、同時にスピードを上げたトラックが都内の道路を行き交うようになったことから、東京都は子供達を輪禍から守るため、「学童擁護員制度」を同年11月に発足させた。学童擁護員は交通安全のシンボルカラーである緑の上着を着て、東京23区内の小学校近くの交差点で黄色い手旗を振った。通称「緑のおばさん」の愛称は、この緑色の制服や帽子を身に着けていたことに由来する。これが全国的に広がっていった。
東京都においてこの制度が導入された1959(昭和34)年当時は、まだまだ女性の職場が少なかった戦後復興期でもあったことから、都労働局が寡婦の失業対策として創設した職業であり、当初は臨時職員であり、日当は315円であったという。(因みに日本では、この年になってやっと、日本国憲法第25条の主旨に基づいて、「最低賃金法」も施行された。)
学童擁護員は1963(昭和39)年に都から区へと移管され、各区の非常勤職員となるが、その後、1965(昭和40)年より正規職員となり、彼女達の待遇は更に改善された。
その後、全国に歩道橋が整備され、小中学校では「通学路」の指定や通学時に学校周辺道路の交通規制を行う「スクールゾーン」(歩行者用道路)の設置もされた。
そして、1970年代のオイルショックによる経済成長の停滞、1991年バブル景気崩壊などもあり、長らく児童を見守る存在として親しまれ「緑のおばさん」の存廃が議論されるようになった。
神戸でも見られた「緑のおばさん」を見なくなったのはもう随分前からのことであるが、今は、どうなっているのだろうか。もう、廃止されたのかな?
緑のおばさん...
噂は聞いてましたが...お会いした事はないですね...
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HITOMI

昭和がキュートすぎる件について

紫雲山 葛井寺
西国三十三所霊場 第五番札所
雨の降る朝 葛井寺に行ってきました
近鉄藤井寺駅を降りて 昭和な感じのレトロな
商店街を通り抜けるとすぐに葛井寺に
着きました。
今日は葛井寺の千手観音菩薩のご開帳の日でした。

国宝 千手観音菩薩さまに間近でお会いしたら
観音様と心で繋がるような不思議な感覚で
胸がいっぱいになり またもや目がウルウルに
なりました
専心龍乗観世音菩薩

龍に乗った観音様カッコイイ
ガッチリ系の弘法大師像
護摩堂

四脚門 (国指定重要文化財)
ついに東京へ行くそうです

実は遠い昔 4才頃まで藤井寺に住んでいて
レトロな商店街、藤井寺球場、春日丘団地、
幼稚園、神社の参道の記憶があるんです。

今回は 祈りの山旅さんの葛井寺参拝企画を見て
懐かしくて参加させてもらいました。

祈りの山旅さん お世話になりました
仏様の事をわかりやすく説明してくださり
ありがとうございます

一緒にまわってくださったみなさま
楽しい時間をありがとうございました
この後葛井寺のすぐ近くにある?辛国神社に
行き 遠い昔の記憶に繋がりました。
とても素敵な神社さんでした
次回に続きます? 
いつも読んでくれてありがとう

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