復活よさらば
こんにちは!
ワーキングマザー 兼 整理収納アドバイザー
akikoです。
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「忙しい働くママ」でも
すっきり&おしゃれな部屋が続く
収納・家事・インテリアの
アイデアを発信しています。
初めましての方は、自己紹介がわりにこちらをどうぞ♪
いよいよ今日からお盆休み!
・・・ですが、お盆休みまでの
平日4日間はホントに死にそうな
毎日でしたorz
・長男体調崩して綱渡り
・お盆前で駆け込みの会議が多くて
仕事スーパー忙しい
・あげく次男まで保育園から呼び出し
おかげ様で長男も今は復活し、
次男も結局全然元気だったので
全く問題なかったのですが、
母は心労と疲労でぐったりorz
なハードな1週間でした・・・。
お盆休み中は友人を家に招いて
ワインパーティーをする予定なので、
のんびり過ごしつつまったりトークで
疲れを癒やしたいと思います!
さて、ここからは今日の本題です!
お客様を招いたりすることも多い
我が家ですが、3LDKで68㎡、
リビングは11畳ほどで
決して広い空間ではありません。
そのため、狭い家だからこその
工夫をしているポイントが
いくつかあります!
そこで今日は、
「狭い家だからこそ」の
お客様が呼べるリビングにする工夫
というテーマで、我が家で実践している
狭い家でもお客様を呼べるように
するための工夫をご紹介します!
■何もない空間を意図的に作る
こちらがリビングの全体像。
ダイニングテーブル以外の家具は
なるべく壁側に寄せて、広く見せるために
できるだけ空間を作るようにしています。
そのため、ソファテーブルは置かず、
もし座りながらお茶などを飲みたいときは
スツールやトレイを使います。
床にできるだけモノを置かない、
というのも工夫のひとつ。
おもちゃは子供部屋から使うものだけ
都度持ってきて片付けるようにしていたり、
ゴミ箱も小さいものをカウンターに置いて
床には置かないようにしています(^^)
■圧迫感のないカラーを選ぶ
先日の記事でも書きましたが、
ダイニングテーブルや椅子は
無垢のカラーを選んで
圧迫感を出さないようにしています。
無印のキャビネットも無垢の素材で
ナチュラルな感じに。
また、床にはグレーのタイルカーペットを
敷いて、ソファーの色と同化させて
統一感を出しています。
我が家で使っているのは
こちらの336のカラー。
テレビ台も同様。
こちらもキャビネットと同じ無印の
AVボードです。
コンパクトなサイズ感のものを選び、
また色味も無垢のカラーにして
圧迫感を出さないようにしています(^^)
■来客時にはフレキシブルに対応できる工夫
そして、テーブルは絶対
エクステンション(伸長式)!というのも
我が家のこだわり。
今のものに変える前も、
IKEAの2?6人用のエクステンション
テーブルを使っていました。
来客の多い我が家ですが、
普段はできるだけリビングを広く
使いたいので人数に合わせて
調整できることはマスト条件です!
そして子連れの来客も多い我が家。
大体その時はリビングは大人の空間にして、
リビングと引き戸で繋がっている
キッズスペースに折りたたみテーブルを置いて
子供たちの空間にしています(^^)
子供用の椅子を人数分用意するのは
結構大変ですが、座卓なら人数を考えずに
対応できるのもいいところです♪
以上、我が家で実践している
狭い家でもお客様が呼べるように
するための工夫でした!
来月初旬に会社の部署の人たちが
大人計7人くらい来る予定があり、
さすがにそれはどうなることやらと
今から思っていますが(笑)
お客様をお招きするのは好きなので
なるべくいつでも来てもらえる家づくりを
目指したいと思います♪
素敵ブロガーさんたちの
華麗なリビングにも憧れます・・・!
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今回の南海郡旅行で一番私の心に残ったのが、実は「ドイツ村(????)」でした。ここは、かつて1960年代にどん底の韓国を復活させるための外貨獲得をかけてドイツに派遣された、2万人近くの炭鉱夫と看護婦たちの一部が、老後を迎えて帰国して暮らす場所として、2001年に造成された記念村でした。
●世界で2番目に貧しい国だった韓国
何よりも、ここの「派独展示館」という記念館で、ドキュメンタリー映像が上映されていたのですが、それを観て私も思わず泣いてしまいました。(´ぅ_ ;`)
1945年、日本の支配からやっと抜け出したこの国にとって、1950年の韓国戦争はあまりにも過酷でした。いわく一人当たりGNPが、タイが220ドル、フィリピンが170ドルの時代に、韓国は76ドル。当時の独立国家120ヵ国の中で2番目に貧しい国であったといいます。
明日の食べる物が保障されない貧困の極致で、「未来」とか「希望」とかいう言葉もあり得なかった時に、1963年から1978年まで7,936人の炭鉱夫が西ドイツに派遣されました。当時、経済復興のための借款を、米国からも拒絶され、同じ分断国であるとして頼み込んだ西ドイツからも拒絶されるや、担保とするものが何もない中で、韓国政府は自国の労働者を送り込んで彼らの給料を担保とする、という形で借款を受けることに成功したわけです。
地下1000mの坑道で35度の温度に耐えながら、ガスの噴出や落盤事故で27人も死亡する中で、あまりの過酷な環境に耐え切れず自ら命を絶つ者も4人出ました。
同じく、1966年から1976年まで11,027人の看護師が派遣されましたが、言葉も通じない中、ひたすら大きなドイツ人の死体をガーゼでアルコール拭きし、ひたすら患者の下の世話をする過酷な労働に、うつ病で27人が自ら命を絶ちました。
●喉が詰まって歌えなかった「愛国歌」
当時、彼らがあまりにも一生懸命に働く姿に感動したドイツ政府は、韓国の朴正煕大統領を招請しましたが、故国の大統領を一目見ようと講堂に集まった彼らは、皆、喉が詰まって国歌である『愛国歌』を最後まで歌うことができなかったといいます。
その前に立って、準備した原稿を折りたたんだ朴大統領は、ただひたすら同じ言葉を繰り返しました。「私たちは一生懸命働きましょう!一生懸命働きましょう!私たちの子孫たちだけは、決して他国に売られてくるようなことがないように、私たちは一生懸命働きましょう!」
それを受けて、その場の炭鉱夫たちは、西ドイツのハインリヒ・リュプケ大統領の前に「クンジョル(地に土下座する敬拝)」を捧げながら、泣きながら訴えました。「どんなことでもいたします!私たちの国をどうか助けてください!私たちの大統領をどうか助けてください」
大声を上げて泣く炭鉱夫と看護師たちを後にしてホテルに向かう車の中で、朴大統領もまたとめどなく涙を流し、リュプケ大統領はハンカチを差し出しながら慰労しました。「私たちが助けます。西ドイツの国民が助けます」
彼らが生活費を切り詰めて収入の85%を送り続けたその外貨は、すべてを失ったこの国が、わずか65年で今の姿になる奇跡の一部となりました。
●ドイツ住宅が観光客の民泊としても
働きぶりに評価が高かった彼らは、多くがその後もドイツに定着して働き続けましたが、老後を迎えて、2001年、美しい海と山に囲まれたこの南海の文化芸術村の中に準備された地に、直接ドイツから建築資材を輸入して伝統的ドイツ様式の住宅を建築しました。30棟の住宅は現在、彼らの住居と共に観光客の民泊施設としても使われています。
このドイツ村の隣には、「園芸芸術村」があり、こちらも約5万坪の敷地に、園芸芸術の専門家たちが各自、家と庭園を作品として造り上げて暮らしています。世界各国風の家と庭園もあり、日本邸宅をイメージした「和庭」というのもありました。(*´ヮ`)/
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