暗闇のテーマパーク
新橋駅の高架下の歩道に、正座をして座り、手を合わせながら、何かをつぶやき続けている男性がいた。
わたしは前を通り過ぎながら、お経を唱えているのか、、、と思い、その人を見た。歩きながらだから一瞬のことだけれど。
その人の片方の手は、手首の辺りまでしかないように見えた。手のひらも指も失われているその手をかばうように、さするように、男性は両手を擦り合わせ続けている。口元はなにかを呟き続けている。
その時は時間もなく、そのまま通り過ぎた。
今朝は少しだけ暑さのゆるんだ、お盆の休みの始まりで、わたしは、その男性の、アスファルトに正座している脚が痛まないのだろうか、なぜ正座なのか、なぜ両手を合わせてお経のようなことをつぶやき続けているのか、そんなことがどこかに引っかかった。
数時間後に用事が終わって駅に戻るときにも、その人はまだ朝の様子と変わりなく、正座をして両手を合わせている。
わたしは一度はその横を通り過ぎ、新橋駅の改札を入り、心に引っかかった何かを無視しようとした。
急いでいるから、とこのまま立ち去ったら、なにかがわたしのどこかに引っかかったままだ、だけど無視して通り過ぎてしまえば、そう長くかからないうちに、道に正座していた決して清潔とは言えない身なりの人のことなど忘れてしまうことになる。
そして、そうするのは、わたしのいつものパターン。なにかを感じていても、静かにそれを引き出しの奥にしまい込んで窒息させる。
だけどその時わたしは心に引っかかった何かを無視することをやめた。というより衝動が強くなり、無視できなくなった、だからハートが感じていることを行動にした。とにかく、一言でもいいからその人に声をかけたかった。
間違って入ってしまったと駅員さんに告げて、一旦通った改札を出て、その男性の方に戻りかけると、ひざ元に拡げてある新聞紙の上に一円玉や五円玉が数枚のっているのが見えた。
わたしはなにかをこの人に手渡したいと、財布を取り出し小銭入れをひらくと、中には一円玉、五円玉、十円玉が数枚入っているのが見えた、これじゃなかった、札入れをひらいてそこにあったお札を男性に渡す。
そうしたら、男性はずっと下げていた視線を、ずっとずっとうつむいていた顔をゆっくりと上げて、わたしの目をまっすぐに見返してきた。白内障なのか、ブルーグレーがかったその目の奥にわたしが見たのは、苦悩ではなく、悲嘆でも、絶望でも、暗闇でもなく、強くて慈悲に満ちた光だった。
その人の目の中に宿る光りは、神だった、そんな風に感じた。
ただそれだけの話しです。オチはなくて、そんな風に感じたことの意味も今は分からない。
ただ、歩道に座っている人たちは、生きることに目的も希望もなく、絶望し、無為にこの人生を過ごしているのではないかと気づかぬうちに蔑んでさえいた自分の思い込みは、思い込みに過ぎず、そんな幻想を消し去るためにそこにいてくれた男性は、そしてわたしに染みついた思考や行動のパターンを振り切り、衝動に素直に動くことをさせてくれた男性は、ある意味でやっぱり神の現れなんだというのは、しっくりと腑に落ちる。