暗闇がなぜか野球部員の間で大人気
osho
惨めさについてさえ、あなたは喜び祝うことができる。
例えば、あなたが悲しいとき、悲しみに同化してはいけない。
観照者になり、その悲しみの瞬間を楽しみなさい。
というのも、悲しみには独特の美しさがあるからだ。
あなたは一度も見守ったことがない。
あなたは完全に同化してしまうので、
悲しみの瞬間の美しさにけっして入っていかない。
見守ったら、自分がどんな宝物を見逃していたか、あなたは驚くだろう。
見なさい = 幸福なとき、
あなたはけっして悲しいときのように深くない。
悲しみには深みがある。
幸福には浅薄さがつきまとう。
幸せな人たちのところへ行って見てみるといい。
いわゆる幸せな人たち、遊び人の男や女、クラブや、
ホテルで見かける人たち、劇場や映画館など、
そういった人たちはいつも笑っていて、幸せにわきたっている。
彼らはいつ見ても薄っぺらで、上辺だけであることに、あなたは気がつく。
彼らには深みというものがない。
幸福は表面にしかない波のようだ。
あなたは上辺だけの人生をすごす。
だが、悲しみには深みがある。
あなたが悲しいとき、それは上辺だけの波ではなくて、
まるで太平洋の深海のようだ。何千メートルもの深みがある。
その深みに入っていって、それを見守ってみるといい。
幸せは騒がしいものだ。
悲しみには静けさがある。
幸せが昼のようだとしたら、悲しみは夜のようだ。
幸せが光のようだとしたら、悲しみは暗闇のようだ。
光は来ては去る。
暗闇はとどまる。
それは永遠だ。
光がたまに生じる。
暗闇はつねにそこにある。
あなたが悲しみのなかへ入っていくと、このすべてのことが感じられる。
突然、あなたは悲しみが対象としてそこにあって、
自分が見守り観照していることに気がつき、
そして突如として、あなたは幸せを感じはじめる。
こんなに美しい悲しみ! それは暗闇の花、永遠の深みの花だ。
底無しの深淵のように、とても静かで、とても音楽的だ。
いっさいの雑音がなく、妨げるものはない。
人は無限にそのなかへ落ちていくことができるし、
すっかりみずみずしくなってそこから出てくることができる。
それは休息だ。
それは態度しだいだ。
悲しくなると、あなたは自分によくないことが起こったと思う。
自分によくないことが起こったというのは解釈なのだが、
あなたはそこから逃げ出そうとしている。
あなたはけっしてそれに瞑想しない。
そのようなとき、あなたはだれかのところへ行こうとする。
パーティーへ、クラブへ、あるいはテレビやラジオをつけたり、
新聞を読みはじめたり、とにかく忘れようとしてなにかをする。
このような間違った態度、
悲しみはよくないという態度が、あなたに教え込まれてきた。
それはなにひとつ悪いものではない。
それは生のもうひとつの極だ。
幸福は一方の極であり、悲しみはもう一方の極だ。
至福はひとつの極であって、惨めさはもうひとつの極だ。
生はその両方から成り立っている。
そして生にはこの二つゆえに規則性がある。
至福だけの生には広がりはあるが深みがない。
悲しみだけの生には深みはあるが広がりがない。
悲しみと至福の両方がある生は多次元的だ。
それはいっぺんにすべての次元のなかを動いていく。
仏像を眺めるか、または私の目のなかをのぞきこんだら、
あなたはその両方をいっぺんに見いだすだろう。
至福、安らぎ、そして悲しみもまた。
あなたはそのなかに悲しみをも含んだ至福を見いだすだろう。
なぜなら、その悲しみが至福に深みをもたらすからだ。
仏像を眺めてみるといい。
至福に満ちているが、悲しげでもある。
この「悲しさ」という言葉があなたに間違った意味を連想させる。
なにかがよくないという。
これはあなたの解釈なのだ。
私にとっては、全体としての生が好ましいものだ。
そして全体としての生を理解して初めて、あなたは祝うことができる。
そうでないと祝えない。
祝祭とは、なにが起ころうと関係ない。
とにかく私は祝うという態度だ。
祝祭はなにかの条件に依存しない。
「幸せだったら私は祝う」とか「不幸せなら私は祝わない」とか。
祝祭は無条件であり、私は生を祝う。
生は不幸せをもたらすが、それでいい。
私は生を祝う。
生は幸せをもたらすが、それでいい、私は生を祝う。
祝祭は私の態度であり、生がもたらす条件には依存しない。
だが、私が言葉を使うために、それらの言葉が
あなたの心に連想を生じさせ、問題が起こってくる。
私が「祝いなさい」と言うと、
あなたは幸福にならないといけないと考える。
悲しいのにどうして祝うことができるだろうか、と。
私は祝うために幸福にならないといけないとは言っていない。
祝祭とはなんであれ生があなたへもたらすものに感謝することだ。
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暗闇 街をつなぐ、心をむすぶ
(⌒0⌒)/~~